いや僕喫煙者なんですよ。(夜にお酒飲んでる時だけ)
でもね、喫煙者ってみんながみんなマナー悪いわけじゃなくて。
一部のマナー守らない人たちが悪目立ちしてるだけだと思うんですね。たぶん。
で、そういう人間がいると非常にムカつくわけですよ。
なんなら〇しちまいたくなるわけです。
で、ひと昔前の自分だったら「〇しちゃってもいいんじゃない?」「その方が世の中のためになるさ」みたいな過激なことを考えている時期もあったんですよ。(思うだけ)
その指をハサミで切り落としたいとか、水ぶっかけてやりたいとかね。(思うだけ)
これタバコに限った話じゃなくて、
公共物の持ち去りとか破損とか、
性善説で成り立っているものを一部の悪人が破壊していくようなもんだと思ってるんですね。
そんなの悔しいじゃないですか。
なんで「ルール守ってる人たちの力で成り立ってるもの」を「ルール守らない人たち」も同じように使えるのかと。
不公平じゃないか!!!!と。
真面目にやってる人間がバカをみるのは間違っている!!!と。
だからですね。
そういった「和」を乱す人間はいらないと、
強制的に排除してしまいたいって思ってたんですよ。(できやしないんですがね)
でも最近ふと思うところがありまして。
「人を守るためのルール」なのに「ルール破ったら死刑」とか
それって人を守れてなくない?と
考え直したんです。
※いや、そんな奴人間じゃないからセーフセーフとか、そんな冗談はさておき。
というわけでchatGPTにもろもろ相談しまして。
じゃあ「ルールを守らない人間を片っ端から裁いてったらどうなるか」をちょっとずつ解像度上げながら考えてみたんです。
※なんかデスノートみたいね。
「ルールを守らない人間を射殺していい」となった世界を、私たちは本当に望むのか
はじめに──「なんでルールを守った人が損をするの?」
路上喫煙禁止区域で堂々と歩きたばこをする人を見かけて、「みんなが我慢して守っているのに、どうしてあの人だけが自由でいられるの?」と思ったことはありませんか?
信号無視、無断駐輪、順番抜かし――世の中には“ちょっとしたルール違反”があふれています。そして、なぜかそうした違反者が「得をしている」ように見えることも。
そんなとき、ふと考えてしまうのです。
「ルールを破った人間には、もっと重い罰を与えるべきでは?」
「見つけ次第、厳罰を科してもいいのでは?」
極端な話ですが、「歩きたばこをした人間を射殺していい」「罰金100万円にする」など、過剰な罰則を想定した社会があったら、いったい何が起きるのでしょうか。
今回はこの問いを出発点に、国内外の事例を踏まえながら「ルール違反への極端な処罰がもたらす未来」を推論していきます。
1. シナリオ①:超安全な監視国家の到来
高額の罰金や厳罰化によって秩序が守られている国として、よく引き合いに出されるのがシンガポールです。ガムの所持や路上喫煙にすら高額な罰金が科され、街は非常に清潔。表面的には「理想的な都市国家」にも見えるかもしれません。
また、中国では「社会信用スコア」が導入されており、交通違反や税金滞納、SNSでの発言などがスコア化され、電車・飛行機への搭乗やローン審査に影響します。
こうした社会では、確かに“表面的な秩序”は保たれます。しかしその一方で、国民は常に監視され、自由な発言や創造的な活動が萎縮する傾向にあります。いわば「静かなる独裁」とも言える状態が常態化するのです。
2. シナリオ②:暴力の連鎖と治安崩壊
過剰な罰則は時として、取り締まる側の暴走や不正義に結びつきます。たとえばフィリピンでは、ドゥテルテ政権下で「麻薬関係者はその場で射殺してもよい」という政策がとられ、多くの市民が裁判なしで命を奪われました。その結果、薬物取引は地下に潜り、警察の腐敗や冤罪の拡大という深刻な副作用を生みました。
また、イランでは「道徳警察」による服装違反の厳罰が発端となり、大規模な抗議運動が発生。女性の自由や人権を巡る社会的対立は、今なお続いています。
暴力による秩序維持は、一時的には有効でも、長期的には国家と市民の信頼関係を破壊し、社会不安を増幅させる結果を招きます。
3. シナリオ③:不公平とルールの形骸化
日本の歴史を振り返っても、ルールの厳格化が常に公正に機能していたわけではありません。江戸時代には、身分によって刑罰に差があり、庶民は軽犯罪でも島流しや刺青刑にされる一方、武士は処罰を免れるケースが多く存在しました。
また、1990年代のアメリカ・ニューヨークでは「割れ窓理論」に基づき、軽犯罪を大量に取り締まる政策が実施されましたが、重犯罪の抑止効果は不明瞭。結果的に、貧困層やマイノリティの大量検挙と差別的運用が問題視されました。
罰則が重すぎると、「捕まらない方法」を知っている者だけが生き延びるという、“ずるい者だけが得をする社会”になってしまうのです。
4. 超厳罰社会の副作用とは?
副作用 |
起きる理由 |
冤罪・誤認逮捕の増加 |
精査より即罰が優先される |
権力者の横暴 |
制裁の裁量を持つ側が無制限に権力を行使 |
萎縮社会の到来 |
挑戦や異論がリスクとなり、人々が沈黙する |
教育や福祉の圧迫 |
罰則関連の予算が肥大化し、他の社会資本が削減 |
信頼の崩壊 |
ルールが「共通のルール」ではなく「支配の道具」になる |
このように、過度な罰則は一見“正義”のように見えて、実は社会をゆっくりと壊していく毒になりかねません。
5. 「人を守るためのルール」が、人を追い詰める矛盾
私たちは忘れてはいけません。
ルールの目的は、人々の命と自由を守り、共生を実現するための道具であるということを。
そのルールが逆に「人を排除し、破壊するための武器」になってしまったとき、それはもはや“秩序”ではありません。
ルールを守らせることが目的化してしまえば、本末転倒なのです。
6. では、どうするべきか?
過剰な厳罰ではなく、以下のような方策がより現実的かつ建設的です。
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比例原則の徹底:違反の内容に応じた段階的な対応を。
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教育と啓発:ポスターやキャンペーンなど、守りたくなる仕組みを。
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ポジティブインセンティブ:ルール遵守者へのポイント還元や優遇措置。
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市民による監視とチェック機関の独立性:権力の暴走を防ぐための第三者機関が必要。
最後に:正義感が暴走する前に、立ち止まって考えよう(自分に言い聞かす)
誰かの違反に腹が立つ。その感情自体は自然なものです。
ですが、その怒りを“制裁”に向けるのではなく、“よりよい社会のあり方”を考えるきっかけにできたなら――きっとそれが、ルールを守る者にとっても、破った者にとっても、真に意味のある「正義」になるはずです。
おばあちゃんのひとこと:
「ルールは縛るための鎖やのうて、みんなで渡る橋や。壊さんように、直しながら渡りぃや。」
▶ 書籍紹介:『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム 著)
紹介理由:
本記事のテーマと親和性が高く、「なぜ人は自由を手放してまで秩序を求めるのか?」という根本的な問題提起を行う古典的名著。監視社会化や権威主義の背景心理を掘り下げる一冊で、読者の思考をさらに深めるきっかけになります。
個人的なお気落ち表明
なんか自分は他人に対して「ルールを守ってほしい」と思っていたのか「罰を与えたかった」のかわからんくなってきた。
そういうとこあるんすよ。自分がルール守るのに必死だから、周りにもそれを強制してしまいがち。
結局恐怖による支配は長続きしないんですね。
やっぱり歴史から学ぶことはたくさんある。
でもやっぱりズルい人をみるとイライラしてしまうのは変わらないので、
どうしてイライラしてしまうのか、から考え直してみようと思います。
気にしなきゃいいのにね。
というか自分が性格悪いのわかってるからな。。
人にどうこう言うの好きなんだよなきっと根っこでは。
多分それは自信のなさの裏返しなんですが。
うむ。もうちょい自分なりに考えてみようと思います。
なんかアドバイスあったら教えてください。